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臨床情報 「“死にたい”と打ち明けられた時にどうすべきか」

「死にたい」と打ち明けられた時にどうすべきか

今回、精神科医としてこの質問を受けた時、とにかく難しい質問だと思いました。
しかしこの質問に対し、精神科医としての私の臨床経験、知識、そして個人としての私の経験や体験を混ぜながら答えたいと思います。


死にたいと考えている人が、誰かに死にたい気持ちを打ち明けるシチュエーションは確かに存在します。

それは、恋人、親友、先生、先輩、後輩、家族、知人、主治医、などさまざまなはずです。
しかし死にたいと告白する相手が、必ずしも親しい相手とは限らないかもしれません。

死にたいと考えるほど自分を追い込んでいる人は、非常に周りの環境に対して可適応で、他者配慮的で、我慢強い方が多いです。
周りに迷惑をかけたくないと強く願っている人は、自分と精神的に近しい相手、例えば家族、恋人、親友、に対し死にたい気持ちを言えない可能性があります。
精神科の主治医は、おそらくそういう方の時に、死にたい気持ちを告白されることがあるのだと思っています。

以下に書くことは、精神科医としての意見ですので、科学的な根拠があるわけではないと思って聞いてください。もちろん私個人の意見も大いに入っています。精神科医は自分の心を利用して、診断、治療にあたります。だからどうしても自分の中のパーソナルな部分を切り離すことができません。心とは目には見えず、境界がないからです。

我々は感情は人と人の間を移動すると考えています。人には自分と他者を分ける壁のようなもの、自我境界というものが存在しています。
自我とは、自分が自分であるために必要なもの、イメージとして風船のような丸い形のものと考えてみてください。
風船の殻は自分と外の世界を分ける境界となっており、風船の中身は自我、簡単に言えば精神的なエネルギーが入っています。例えば自我の殻に穴があいたり、薄くなったりすると、自分のエネルギーや感情は外にもれだします。また他人の感情(特にネガティブなもの)は入りやすくなります。

人はあくびをするとそれが他人に移ったり、悲しい映画を見たら自分の中に悲しいという感情がわいたり、怒っている人が目の前にいると理由はないのにイライラしたり、皆さんも言われてみればそういう経験があるのではないでしょうか。

つまり感情は相手に渡すことができるのです。死にたいほどつらい気持ちも、その中に含まれます。
死にたいという強い感情を相手に渡すことができれば、渡した相手は少し気持ちが楽になり、逆に渡された相手は少し心の負担が増えます。感覚的に人はそれを分かっているから死にたいという気持ちを、自分が大切にしている相手には言いにくいと思い、なんでもない他人にも言えないと考えるのです。だから死にたい気持ちを言えずに自殺してしまう方が存在しています。

つらい気持ちを小出しに他者に伝えれる方は、死にたいという気持ちがでるところまで状態が悪くなりにくいかもしれません。
だから死のぎりぎりまで、死にたい気持ちを誰かに伝えることができていない人は、そのプロセスから我慢強く、他者配慮的で、そのプロセスで精神エネルギーは疲弊してきっており、自我の風船は限りなく小さくしぼんでいることでしょう。そしてその風船に死にたい、自分なんかこの世にいる価値がない、誰にも必要とされていない、と考える黒い気体がはいっています。この気体は内側から自我境界を攻撃して、殻を少しずつ薄くしていったり、穴をあけてしまったりします。そうすると自我エネルギーは外にもれだしていき、より小さい風船になります。

そこまで自我エネルギーが低下した人がいると想像してみてください。自我風船を膨らませるには、外からその人を認証してあげるプラスのエネルギーを入れるか、悪いエネルギーをもらってあげるか、の二つになります。
死にたいという気持ちを聞くことは、悪いエネルギーをもらう行為となります。聞くだけでも、自我機能は回復する可能性があるのです。

さらにプラスのエネルギーを入れるには、その人を認証する必要があります。この世に存在していていいんだ、自分は無価値ではないんだ、必要としている人がいあるのだ、と感じさせてあげるのです。我々精神科医は、前回の記事で書きましたが、これを基本的信頼感と呼びます。
小さい子供が特に何もできないけど、存在を養育者(主には母親)に認証されることから生まれる感覚です。生きてくれるだけでいいんだよ、いるだけでありがとう、という感覚を与えられる必要があります。

死にたい気持ちをぎりぎりまで他者に言えない人は、基本的信頼感が乏しい方が多いと思います。
死にたいと言われたときに、どのように対応すればいいのか、それはあらゆるパターンが想定されます。決まった答えはないでしょう。
ですが、上記のようなことを知識として知っていたなら、まずは聞くだけでも自我機能を回復させることができることが分かります。次に、その人を認証する行為、それは言葉がけだけではないと思います。その時間や空間を共有し、相手から自分の心の中に入ってくる悲しみ、苦しみ、不安、恐怖、絶望、を感じながら(感じているということはその感情をもらうことができているということです)、その場所に一緒に存在し続ける。その行為こそがその人を認証する、認めることにつながるのです。その人はこれまで自分のネガティブな感情を他者に伝えたら、自分は否定される、必要じゃないと思われると思いながら生きてきたのです。だからそのネガティブな感情を伝えられたあなたがその場にとどまることができたなら、それが相手を認証したことになるのです。

私はそのあとのかける言葉はあってもいいし、なくてもいいと思っています。私自身は、主治医として関わった方に、ほんとうに死にたいと気持ちを伝えられた時、言葉がでてくることはほとんどなかったと記憶しています。どの言葉もチープに思えて、何かを発することができませんでした。でもその場にずっと一緒にいて感情を共有しようと思いました。

最初にいただいた質問への答えになっていない部分もあると思いますが、これが精神科医としての今の私の答えです。
もしかしたらもっと精神科医としての臨床経験、一人の人間としての人生経験を積めば、違う答えを言うかもしれませんが、今はこのように思っています。

心とは目に見えません。想像するしかないのです。しかしイメージは大事だと思っています。
今回は心というものを少し立体的に考えたら、こういう考え方があってもいいのではないかと思い書かせていただきました。

これは何か根拠があるわけではなく、私が精神科臨床をやる中で感じていたことです。

このことが、死にたいと思っている人、死にたいと思っている人を救いたいと思う人、双方にとって意味のあるものになってくれれば幸いです。


医療法人永朋会 理事長
加藤晃司